どの道を選んでも自分の運命に辿り着く
人とのご縁というのはとても神秘的です。人生には ”あの時あの人と出会っていなかったら…” や ”左と右に行く2つの道、私のは右の道を選んだ…” というようなターニングポイントが何度も訪れます。どちらを選んでも自分の道です。私は常に選んだ道を信頼して前に進んでいきたいと思っています。
White Stone Arts
イギリス・HAWORTHの「BRONTE MUSEUM・BRONTE Society」で、Emily Bronte生誕200年記念の大掛かりで野心的なInstallation&Lafcadio Hearn「Kwidan」の「霊・魂」の根元的な繋がりを求めて、WhitestoneArtsと59productionsのartist teamと、作品制作に取り組みました。
動画サイト「vimeo」で、私が参加した作品の映像がアップされています。
こちらからご覧ください→ Click here for the video
山本忠勝氏
書家として今日まで活動を続けてこられたのは、1999年春の初個展に神戸新聞文化部記者であった山本忠勝氏が拙書を認知してくださったからである。まさに私にとって書活動の『命』の『恩人』である。
以下は山本氏が書かれた批評紙 シュプリッターエコーより抜粋しています。
「アルファベット…いうまでもなくABCのことである。今からここで語るのはこの英語圏の文字列のことなのだが、しかしきょうだけは何か別の適切な呼び方はないものだろうかと思うのだ。できればABCに精神性の味付けをして例えば「聖アルファベット」だとか、ついでに神秘性も少しは加えて「聖フェニキア文字」だとか。書家・小阪美鈴が英語を墨書した軸作品「BELIEVE」をここでこのように論じるにあたっては(小阪美鈴 書展 2008年1月5日~10日 神戸・TOR GALLERY)。冒険である。間違いなく評価が分かれる作品である。小阪にしても、依頼者からの切実な要請がなかったなら、おそらくおいそれと踏み入ることのできなかった領域である。BELIEVE(信じる)。七つのアルファベットを縦に墨書して、軸装にした。二重の格闘があった。まず字形そのものが墨になじまないということ。そして横書きが習わしの書き方を無理やりに縦書きにするということ。だが仕上げられた書は、あたかも塔のようにそこに立った。むしろ漢字やかなよりも凛と立った。信じる、という魂の意志表示がまぶしいくらい現れた。ブッダの聖なる心を体したストゥーパのように。 伏線はあった。小阪はかなり前に「LET IT BE」(レット・イット・ビー)という作品を発表している。ザ・ビートルズの名盤から採ったモチーフだが、それは一瞬の噴火のように紙の上に現れた。ポール・マッカートニーの宗教的な内なるビジョンに根ざしたこの歌は、不思議なくらい東洋の知恵とも共振する。なるがままにまかせなさい…。ビートルズ解体の危機の中で、しかし危機ゆえに激しく、深く絶唱されたこの曲は、小阪を勇気づけ、解放し、共感が書の中で炸裂した。「LET IT BE」は、魂が疾走するような書になった。疾風のような作品になっていた。 今度の依頼者も初めは「LET IT BE」を所望した。それをやがて「BELIEVE」へと変更する。「やっぱり、これ、これしかない、信じるしかない、って、そう彼女(依頼者)は言ったんです。しばらく熟考したあとで」人はときにその一言にそれまでの全人生が響き渡るような、そのような深い一言をなすものだ。「LET IT BE」から「BELIEVE」へ…。生の曲折を経てきた女性にとって、二つの言葉の間には無限ともいうべき深い淵が横たわっていたはずだ。そこを越える大きな飛翔があったはずだ。小阪はそれを聞いたのだ。だから、書けた。高い、高い塔が立った。さて、限られた字数の中でもう一点だけ作品を紹介しておきたい。こちらはオーソドックスに漢字とかなの文である。作品に採られた部分を、全文ここに書き出そう。こうである。「われらは全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。日本国憲法の前文である。明るい、心のこもった書なのである。
2008.1.10 Tadakatsu Yamamoto
書家として今日まで活動を続けてこられたのは、1999年春の初個展に神戸新聞文化部記者であった山本忠勝氏が拙書を認知してくださったからである。まさに私にとって書活動の『命』の『恩人』である。
以下は山本氏が書かれた批評紙 シュプリッターエコーより抜粋しています。
「アルファベット…いうまでもなくABCのことである。今からここで語るのはこの英語圏の文字列のことなのだが、しかしきょうだけは何か別の適切な呼び方はないものだろうかと思うのだ。できればABCに精神性の味付けをして例えば「聖アルファベット」だとか、ついでに神秘性も少しは加えて「聖フェニキア文字」だとか。書家・小阪美鈴が英語を墨書した軸作品「BELIEVE」をここでこのように論じるにあたっては(小阪美鈴 書展 2008年1月5日~10日 神戸・TOR GALLERY)。冒険である。間違いなく評価が分かれる作品である。小阪にしても、依頼者からの切実な要請がなかったなら、おそらくおいそれと踏み入ることのできなかった領域である。BELIEVE(信じる)。七つのアルファベットを縦に墨書して、軸装にした。二重の格闘があった。まず字形そのものが墨になじまないということ。そして横書きが習わしの書き方を無理やりに縦書きにするということ。だが仕上げられた書は、あたかも塔のようにそこに立った。むしろ漢字やかなよりも凛と立った。信じる、という魂の意志表示がまぶしいくらい現れた。ブッダの聖なる心を体したストゥーパのように。 伏線はあった。小阪はかなり前に「LET IT BE」(レット・イット・ビー)という作品を発表している。ザ・ビートルズの名盤から採ったモチーフだが、それは一瞬の噴火のように紙の上に現れた。ポール・マッカートニーの宗教的な内なるビジョンに根ざしたこの歌は、不思議なくらい東洋の知恵とも共振する。なるがままにまかせなさい…。ビートルズ解体の危機の中で、しかし危機ゆえに激しく、深く絶唱されたこの曲は、小阪を勇気づけ、解放し、共感が書の中で炸裂した。「LET IT BE」は、魂が疾走するような書になった。疾風のような作品になっていた。 今度の依頼者も初めは「LET IT BE」を所望した。それをやがて「BELIEVE」へと変更する。「やっぱり、これ、これしかない、信じるしかない、って、そう彼女(依頼者)は言ったんです。しばらく熟考したあとで」人はときにその一言にそれまでの全人生が響き渡るような、そのような深い一言をなすものだ。「LET IT BE」から「BELIEVE」へ…。生の曲折を経てきた女性にとって、二つの言葉の間には無限ともいうべき深い淵が横たわっていたはずだ。そこを越える大きな飛翔があったはずだ。小阪はそれを聞いたのだ。だから、書けた。高い、高い塔が立った。さて、限られた字数の中でもう一点だけ作品を紹介しておきたい。こちらはオーソドックスに漢字とかなの文である。作品に採られた部分を、全文ここに書き出そう。こうである。「われらは全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。日本国憲法の前文である。明るい、心のこもった書なのである。
2008.1.10 Tadakatsu Yamamoto
森繁久弥先生の震災詩を書に
森繁さん震災詩:書の中に教え子亡くした神戸の書家「我がを育てし兵庫の里よ、ともよ」。森繁久彌先生のお言葉・メッセージをお借りして「震災の記憶」を発表させて頂き、今までにない反響がありました。多くの方に立ち止まって読んでいただき書家冥利でございました。
以下は記事の内容になります。
「俳優の故・森繁久弥さんが阪神大震災(95年1月)直後、地元紙に寄せた詩を題材に、神戸市須磨区の書家、小阪美鈴さんが作品を制作した。小阪さんは震災で教え子を亡くしたが、森繁さんの詩に何度も励まされたという。9日には、森繁さんの次男建(たつる)さん(67)が神戸を訪れて作品を鑑賞、「震災に心を痛めた父の気持ちを見事に表現してくれた」と語った。震災では、書道教室で教えていた小学2年女児が倒壊家屋の下敷きになり亡くなった。上達すると屈託のない笑顔で喜ぶ子どもだった。命のはかなさを思い、ふさぎ込んだ。数日後、少年時代を兵庫県西宮市で過ごした森繁さんの詩が、神戸新聞に掲載された。「我を育てし兵庫の里よ、友よ/(中略)紅梅のこの赤の そら怖(おそ)ろしげな/腕さすり 頬(ほお)つねる 昨日今日/兄等の無事を どう祈るや その術(すべ)もなき/雲流る 六甲よ」「深い悲しみと慈愛に満ちたメッセージだ」と受け止めた。何度も読み返し、立ち直るきっかけとなった。何度か作品にしようと考えたが「まだ未熟」と思いとどまった。昨年11月、森繁さんの訃報(ふほう)に接し、制作を決意。建さんからも「父も光栄だと思う」と快諾を受けた。無心で筆を握り、約100枚書き直し、全紙(縦約1.4メートル、横70センチ)など5枚を使って完成させた。作品を見た建さんは「素晴らしい。天国にいる父も間違いなく喜んでいる」と語った。 建さんによると、森繁さんは震災当時、新聞やテレビを食い入るように見て、被災地の友人のことを心配していたという。小阪さんは「被災者は今も心の傷が癒えないが、たくましく生きている。震災を風化させないため、書家として表現し続けたい」と話した。」
森繁さん震災詩:書の中に教え子亡くした神戸の書家「我がを育てし兵庫の里よ、ともよ」。森繁久彌先生のお言葉・メッセージをお借りして「震災の記憶」を発表させて頂き、今までにない反響がありました。多くの方に立ち止まって読んでいただき書家冥利でございました。
以下は記事の内容になります。
「俳優の故・森繁久弥さんが阪神大震災(95年1月)直後、地元紙に寄せた詩を題材に、神戸市須磨区の書家、小阪美鈴さんが作品を制作した。小阪さんは震災で教え子を亡くしたが、森繁さんの詩に何度も励まされたという。9日には、森繁さんの次男建(たつる)さん(67)が神戸を訪れて作品を鑑賞、「震災に心を痛めた父の気持ちを見事に表現してくれた」と語った。震災では、書道教室で教えていた小学2年女児が倒壊家屋の下敷きになり亡くなった。上達すると屈託のない笑顔で喜ぶ子どもだった。命のはかなさを思い、ふさぎ込んだ。数日後、少年時代を兵庫県西宮市で過ごした森繁さんの詩が、神戸新聞に掲載された。「我を育てし兵庫の里よ、友よ/(中略)紅梅のこの赤の そら怖(おそ)ろしげな/腕さすり 頬(ほお)つねる 昨日今日/兄等の無事を どう祈るや その術(すべ)もなき/雲流る 六甲よ」「深い悲しみと慈愛に満ちたメッセージだ」と受け止めた。何度も読み返し、立ち直るきっかけとなった。何度か作品にしようと考えたが「まだ未熟」と思いとどまった。昨年11月、森繁さんの訃報(ふほう)に接し、制作を決意。建さんからも「父も光栄だと思う」と快諾を受けた。無心で筆を握り、約100枚書き直し、全紙(縦約1.4メートル、横70センチ)など5枚を使って完成させた。作品を見た建さんは「素晴らしい。天国にいる父も間違いなく喜んでいる」と語った。 建さんによると、森繁さんは震災当時、新聞やテレビを食い入るように見て、被災地の友人のことを心配していたという。小阪さんは「被災者は今も心の傷が癒えないが、たくましく生きている。震災を風化させないため、書家として表現し続けたい」と話した。」
フラナガン氏との不思議なご縁
フラナガン氏とは2002年の秋に神戸北野にある「北野外国人クラブ」に書の講演に行った時が初対面である。このクラブは月1回関西在住の外国人の方々の交流を目的に日本の文化、伝統を知る機会として開催されている。私の講演の主な内容は、日本人の心を虜にしてやまない「桜」を書で表現するに際しての、心の葛藤の経緯を話したと思う。
なかなか納得のいく「桜」が表わせなくて悶々としていたら「!」とひらめいた!
桜の文字を分解してみよう…「木とおんな・女と、花びら」、で造形できる…主に以上のような内容だったと思う。
講演後は多くの外国人の方々と書のご縁をいただきましたが、フラナガン氏は特に印象に残っています。壇上の私の話を真正面で、にこやかに腕を組んで耳を傾けておられましたから。日本文学博士号をお持ちのフラナガン氏は、通訳いらずで一番理解して下さったのだと思っています。
その後、漱石「倫敦塔」の翻訳、論評の本をイギリスから出版される際に、タイトル字の依頼を戴きました。「倫敦塔」は「ドナルド・キーン文化センター日米翻訳友好賞」を授与され、タイトル字揮毫の私もNYコロンビア大学の授与式に参列の光栄を与えられました。
以後、「門」「こころ」「坊っちゃん」を揮毫、2010年10月「草枕」を揮毫。フラナガン氏の博識と見識に裏打ちされた評論は、「美鈴の書の道」を、明るく照らしています。感謝。
フラナガン氏とは2002年の秋に神戸北野にある「北野外国人クラブ」に書の講演に行った時が初対面である。このクラブは月1回関西在住の外国人の方々の交流を目的に日本の文化、伝統を知る機会として開催されている。私の講演の主な内容は、日本人の心を虜にしてやまない「桜」を書で表現するに際しての、心の葛藤の経緯を話したと思う。
なかなか納得のいく「桜」が表わせなくて悶々としていたら「!」とひらめいた!
桜の文字を分解してみよう…「木とおんな・女と、花びら」、で造形できる…主に以上のような内容だったと思う。
講演後は多くの外国人の方々と書のご縁をいただきましたが、フラナガン氏は特に印象に残っています。壇上の私の話を真正面で、にこやかに腕を組んで耳を傾けておられましたから。日本文学博士号をお持ちのフラナガン氏は、通訳いらずで一番理解して下さったのだと思っています。
その後、漱石「倫敦塔」の翻訳、論評の本をイギリスから出版される際に、タイトル字の依頼を戴きました。「倫敦塔」は「ドナルド・キーン文化センター日米翻訳友好賞」を授与され、タイトル字揮毫の私もNYコロンビア大学の授与式に参列の光栄を与えられました。
以後、「門」「こころ」「坊っちゃん」を揮毫、2010年10月「草枕」を揮毫。フラナガン氏の博識と見識に裏打ちされた評論は、「美鈴の書の道」を、明るく照らしています。感謝。
小橋かおる氏とのご縁
神戸で予約の取れない人気店として話題になった(NADABAN DINING)が東京ミッドタウン内に「HAL YAMASHITA東京」として進出。店内に拙書が掛けられています。